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彩寺記

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2021/07/29 (Thu)

       施餓鬼棚   

ご先祖さまが、お浄土からこの世に帰って来られるお盆。
私たちにとってお盆は、ご先祖さまの精霊を供養する大切な行事です。

お盆は、正式には「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といい、お釈迦さまの弟子の
目連尊者(もくれんそんじゃ)が餓鬼道に堕ちた母を救った話に由来するといわれています。

 その昔、目連尊者は亡き母がどの世界に生まれ変わったのか、神通力を使って
 母の姿を探しました。
 すると、驚いたことに、あのやさしかった母が餓鬼道に堕ちていました。
 母に食べ物を差し出しても炎に変わり、食べることができません。
 目連尊者は母を救いたい一心で、お釈迦さまに助けを求めました。
 お釈迦さまは、
 「雨期の修行が終わった僧たちを供養しなさい。
  そして、お経をあげてもらうのです。そうすれば、
  母だけでなく、餓鬼道にいるすべての人々が救われるでしょう」
 とおっしゃいました。
 目連尊者は、お釈迦さまの教えのとおりにしました。
 すると、母や餓鬼道にいる多くの人々が救われました。

当寺では、毎年8月16日にお盆の施餓鬼法要を勤めます。
「施餓鬼(せがき)」は「餓鬼に施す」と書くように、
自分のご先祖さまだけでなく、餓鬼道にいる人々も供養する法要です。
2021/06/16 (Wed)


人生は思い通りにはならず、皆、悩み苦しみながら日々を過ごしています。

お釈迦さまは「この世は苦である」と説かれ、
その中に生老病死(しょうろうびょうし)が
あると教えられました。

生・・・苦に満ちたこの世に生まれてくることの苦しみ
老・・・老いることの苦しみ
病・・・病むことの苦しみ
死・・・死ぬことの苦しみ

苦の原因は、人間が持っている煩悩によります。
煩悩とは、執着、欲望など、自分の思い通りにしようとする心です。

煩悩は決してなくすことはできません。
だから苦もなくすことはできませんが、苦は乗り越えられるとお釈迦さまは説かれます。
あらゆる出来事を苦と受け取るかどうかは、私たちの心によって決まるからです。

老いを恐れ、若さに執着すると、老いが苦になりますが,
老いは自然現象で仕方がない、と考える人には苦と感じられません。

苦に向き合い、苦の原因を見つけ、受け入れることで、煩悩が離れ、執着も減り、
やがて、苦しみは離れていくのです。


2020/12/09 (Wed)


私たちは日々何度も迷い、何度も決断を迫られ過ごしています。
小さな決断から人生を左右する大きな決断まで、様々な決断がやって来ます。

「人間は生きているかぎり迷う」という言葉もありますが、
お釈迦さまはどうだったのでしょう。
きっと迷うことはなかったのではないか、と思ってしまいますが、
実はお釈迦さまも迷うこともあったのです。

お釈迦さまは悟りを開かれた後、しばらく一人でその境地を楽しんでおられました。
そこへ梵天という神様から
「どうか、世の人々のために教えを説いてください」
とお願いされます。
しかし、お釈迦さまは躊躇(ちゅうちょ)されます。迷われたのです。
「人々に話しても理解してもらえないだろう」と。
その後、さらに梵天にお願いされて、お釈迦さまは法を説くことを決意されたのです。

“お釈迦さまも迷われる”と思うと、日々の迷いが少し軽くなる気がします。
そっちへ行くか、こっちへ行くか。
しっかり迷って、もし間違えた時は反省して次に生かす。
もしかすると、その繰り返しの中に、私たち凡夫の「さとり」が隠れているのかもしれません。

昨日、12月8日はお釈迦様がお悟りになられた成道会(じょうどうえ)の日です。
2020/11/29 (Sun)


紅葉の見ごろも過ぎ、木々が葉を散らしています。
枝から落ちる葉を見ると、良寛和尚の句を思い出します。

~うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ~

病床にあった良寛和尚の看病をしていた弟子の貞心尼。
良寛和尚の死期が近いことを嘆いて次の句を詠みます。

~生き死にの さかいはなれて すむ身にも さらぬ別れの あるぞかなしき~
(生き死ににこだわらない出家の身でありながら、
 避けることができない別れがあることがまことに悲しい)

これを聞いた良寛和尚は、貞心尼にこの句をつぶやきます。

~うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ~
(裏も表もすべて見せて、自然に散っていくもみじのように、
 みんなこの世を去っていくのです…)

数日後、良寛和尚は貞心尼に看取られながら、お浄土へ旅立っていきます。

人は日々、良い面と悪い面をお互い見せあいながら生きています。
傷つけたり傷つけられたりすることもあります。
泣いたり笑ったり、生きていると日々色んなことが起こります。

そして最後は、もみじのように散って、お浄土へ旅立ちます。

この句を詠むと、私たちも大きな自然の一つなんだと気づかされます。

2020/01/13 (Mon)



~門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし~ 一休宗純

一休さんで親しまれている一休宗純和尚が詠んだ歌です。

門松を飾り新年を迎えるお正月は、華やかでめでたい行事ですが、新年を迎えるということは、一つ歳を取り、一歩死に近づくということでもあります。
そう考えると「めでたくもあり めでたくもなし」という、少し複雑な気持ちになります。
浮かれてばかりいないで気を引き締めなさい、という一休和尚の戒めの言葉にも聞こえます。

子どもの頃は、毎年お正月が来るのを心待ちにしていたのを覚えています。
でも、大人になるにつれ、時間の流れが年々速く感じるようになり、焦りとともに新年を迎え、一年があっという間に過ぎていきます。
人生百年時代といわれていますが、気がつけば、人生もあっという間に終わるのかもしれません。

人は、寿命を終え、極楽浄土へ旅立つとき、この世のものは何一つ持っていくことはできません。
ただ一つ、身につけたお念仏の教えだけが心の杖となり、お浄土への旅立ちの手助けとなるのです。
今年も日々、お念仏生活を送っていきましょう。



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